商業的な“書く”と私的な“書く”について
こんばんは、sumiです。
一週間がこの上なく早く感じる今日この頃。
気づけば、毎日、毎日、ひたすら毎日書いてます。
一日、一週間を通して一番多い時間。
それはPCの間でキーボードを叩く時間です。
時に無心で、時に書く内容に想いを馳せながら。
この書くという作業を仕事にして今年で3年目を迎えて
一つ感じることがありましたので共有します。
私は誰に教えてもらったワケでもなく。
ただ、必要にかられて、自然とそういう考えに至ったのか。
商業的に書くことと、私的に書くことを
使い分けていることに気づきました。
寄稿している媒体が
誰のどんな為の情報を取りまとめているか。
それに合わせた内容のもの、同じものをテーマにしていても
“誰のどんなための情報なのか”で切り口が大きく変化するので
同じ内容に見えて、全く別の文章になったりします。
こういった媒体を通して見える世界に基づいて
それに合わせた文章を書くのが商業的な書くということです。
反対に、何も考えず。
というよりは、売り方に基づいた戦略など練らず。
ただ自分の考えをありのまま、裸の様に描いた文章。
それが私的な文章で、ブログやSNSで発信されるものは、
それに近いものがあります。
ただ、ひたすら“書くこと”を仕事にしてきた私。
もちろん媒体を通して発信した記事一つ一つは
紛れも無く私の価値観で出来上がり、そこに嘘偽りはありません。
しかし、一方で
とても大きな制約を自分に課しているとも思うのです。
これはウチの媒体的な言い回しじゃない。
この情報はウチの媒体の読者に届けたい。
無意識に書くべき文章に自分なりのレールを作って書いていたのです。
それが悪いということではなく。
自分の文章が自分の力では成し得ない
媒体の大きな力を借りて発信出来る喜びがあります。
その一方で自分の価値観を切り売りしている感覚もある。
なので、他の誰のためでもなく
自分らしさを表現するためにブログを書くことにしました。
なかなか目先の忙しさに捉われて、自分の地の文章を書いていませんが…。
でも、そうすることで
心はすごく均衡が保たれている様にも思えます。
書くことは私にとって一つの表現方法。
そして自分のアイデンティティを表す武器です。
だからこそ、その武器をただ切り売りするだけでなく。
時に自分の独自の切り口を持って書く。
裸のままの文章が時に面白いこともあるものなんです。
お金になるとか、ならないとかではなく。
文章をあらゆる視点で書き、自分の価値観を発信すること。
それそのものが好きなのが文筆業を営む人の心なのではないでしょうか。
時に思いつきのまま、記事を書いてみました。
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