祖母の話

つい先日、久しぶりに父と母の3人で食事に行った。記憶に正しければおよそ1年ぶりだろうか。実家にいる頃は30歳手前になるまで、食事に出かけたものだったな。久々の空気感に懐かしさを感じつつも、ちょっとしたした違和感を覚えるのもまた不思議だ。


お盆も近いという日だったこともあり、祖母の話になった。思えば子どもの頃はどちらかといえば母方の祖母に懐いていたのだが、成人する頃は父方の祖母と会うことのほうが多くなり、なんとなく母方の祖母とは疎遠になっていた。なので、懐かしむような思い出話もとくにはなかったのだが、祖母と今の私に、ある共通点があったことを先日の食事の席で知って非常に感慨深かった。


祖母は、独特の圧力があった。昔は美人だったのであろう、ハッキリとした派手な骨格。母に似ている。いや、母が似ているのか。今思えば、母もそうだがとにかくサッパリした性格もあって、孫をベタベタ甘やかすような人ではなかった。母以上に大人びた存在として幼心におばあちゃんとは優しいけどちょっとコワイ人という印象を持っていたようにも思う。


亡くなる直前の数年間はほとんど会わなかった。その頃は自分の仕事を作りたいと一念発起するもなかなかうまくいかず、半分プータローのような生活をしながらどうすれば独り立ちができるのかと、それしか考えられなかった。家族を大切にするとか、健康を大事にとか、両親の言う、そういうものの全てが疎ましく感じられたこともあり、当時は家によりつかなかった。そうした背景も加えて、祖母との会う機会すらも自らで絶ってしまった。亡くなってから後悔するようなことは、可愛い愛猫を失ったときに嫌というほど分かったはずなのに。


しかし葬式、告別式、納骨をひと通り済ませてもなお、私は祖母を想って泣くようなことはなかった。鼻水と嗚咽を垂らして泣いていた姉を横目に「そんなに泣くほどのことなのだろうか」と不思議に思いながら姉の鼻水を見ていた。後々になって思えば、姉は私が生まれるまでの6年間を祖母とともに過ごしていた訳で、私の知ることのない大切な記憶があったのかもしれない。汚い鼻水だと思ってごめん。


私はといえば、生まれてすぐ祖母の家を離れ東京へ転勤。それ以降も転勤が繰り返され、祖母とは数年に1度、夏休みで帰るときくらいしか接しなかった。それも小学2年生くらいまでの話。祖母を知らなすぎた。だからこそ先日の食事で祖母がかつて、祖母になる前の頃の話を聞いてとても興味深かった。


祖母は戦前、電電公社という今のNTTグループの前身である通信事業に働いていたようだった。その前か後だったか忘れたがタイピストの仕事もしていたそうだ。日本におけるタイピストの仕事のルーツは簡単に調べただけだが、どうやら大阪らしい。祖母は生まれながらの大阪人だったので恐らくは当時にしては珍しかったタイピストに職業婦人の先駆けとして働いていたのかもしれない。


戦時中か戦後かは忘れたが、三重に両親とともに移ったのち、人の紹介で入った仕事が芸者。祖母が芸者をしていたことは私もかつて聞いていたことがあったので、とくに驚いたことはなかったのだがこうして祖母の若かりし頃の話を母から聞くと、意外にもキャリアウーマンだったんだろうかなということがわかった。


とくに巡り巡ってタイプライターの仕事をしていたという事実は、Webライターをしている私にとっては、祖母への新たな親近感を覚えた。母から言わせれば「とくにそんなタイプライターの仕事に誇りがあったとかでもないよ。ただ流れに身を任せるように見つけた仕事がタイプライターだったってだけでしょ」とのことだが、そんなことを言ってしまえば私も友人の紹介でありついた仕事がライターだったので益々、血は争えない。


もちろん作家とは違ったであろう、指示された文字をタイプライターで打ち込む作業だったとは思うがそれでもNHKの朝ドラでしか見たことのないような景色の一部に私の祖母も存在していたのかと思うとこれまさに、人に歴史ありだ。


祖母が必死に生き抜いたおかげで私がいるわけで。なんの因果か、私も祖母につながるような仕事をしているわけで。無意識下でもそうやって選んだ仕事が繋がっているのは、祖母から母へ、母から私へと受け継いだDNAの中にある価値観や生き方、考え方がそうさせるのであろうか。時々忘れてしまうけれど、時代は確かに繋がっているのだよなぁ。




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